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ジャングルから里帰りした「飛燕」なんとパイロット判明! 知られざる“エース”と新戦闘機ミュージアムとの「奇跡の縁」

乗りものニュース / 2024年5月18日 18時12分

3年以上の歳月をかけて完成した三式戦闘機「飛燕」の金属製原寸大模型。茨城県の(株)日本立体で製作されて分解輸送された後、再びこの地で組み立てられた(吉川和篤撮影)。

岡山県の浅口市にこのたび三式戦闘機「飛燕」のミュージアムが開館しました。ここではジャングルから引き上げてきた実機とピカピカの原寸大模型が展示されていますが、なんと前者については、文字通りの “里帰り” だと判明しました。

原寸大「飛燕」岡山で展示スタート

 2024年4月26日、田園と緑が広がる岡山県浅口市金光町に、太平洋戦争中の日本戦闘機の博物館「ドレミコレクションミュージアム」が開館し、オープニングセレモニーが行われました。ここには、ニューギニアのジャングルで発見されて里帰りした旧日本陸軍の三式戦闘機「飛燕」一型甲(キ61-I甲)の実機と共に、新たに製作された原寸大模型が展示され、話題になっています。

 三式戦闘機「飛燕」は太平洋戦争の中頃、万能な中型戦闘機として川崎航空機の土井武夫技師のチームで設計・開発され、1943(昭和18)年に制式化されました。その最大の特徴は、日本の戦闘機としては珍しい液冷式エンジンを搭載していた点です。

 当時の日本の戦闘機のほとんどは、星形の空冷エンジンを搭載していたため、機首が円筒状のものばかりでした。そういったなか、飛燕は機首が尖っており、いうなればスマートな外観を誇っていました。

 搭載していたのは、国産の「ハ40」型エンジンです。これは、当時同盟国であったドイツのダイムラー・ベンツ社が開発した液冷式倒立V型のDB601A型エンジン(1050馬力)を川崎航空機がライセンス生産したものでした。

 同エンジンはドイツのメッサーシュミットBf-109E戦闘機に搭載されたため、ある意味で日本機らしくないスマートな機首形状と合わせて「飛燕」は、「和製メッサー」と呼ばれたりもします。

 しかし、実はBf-109Eと「飛燕」を比べた場合、上昇力も旋回性能も全て後者の方が優れていました。また「飛燕」は、空力的にも優れた機体設計により最高速度は590km/hを記録するなど優秀で、わずか3年ほどしか生産されなかったものの、各型合計で3000機以上が造られ、東南アジアの南方戦線や本土防空戦などで多用されています。

ジャングルから80年ぶりの帰還

 実は、このたび展示が始まった「飛燕」の原寸大模型は、茨城県小美玉市にある日本立体(齊藤裕行社長)の工場において構想1年、製作期間2年の歳月をかけて生み出されたものですが、その形状を再現するのに大きく貢献したのが、もうひとつの目玉展示といえる「飛燕」の実機でした。

 この「飛燕」は、戦後にパプアニューギニアのジャングルで発見された機体です。当初はオーストラリアのコレクターが所有していましたが、2017(平成29)年にオークションへ出品。ここで、岡山県倉敷市でオートバイ部品・用品を製造、販売するドレミコレクションの武 浩社長が入手します。

 こうして、長らく日本から遠く離れた地にあった「飛燕」の日本への里帰りが実現するに至りました。

 当初、武社長は後世に伝える歴史の証しや貴重な産業遺産という観点から、同機を復元しようと考えていたそう。ただ、それには膨大な時間が掛かることが判明します。さらに、倉敷市で保管していた際に、「飛燕」を見学しに訪れた当時の工員の人や関係者らが、同機を見て感動する姿を目の当たりにしたことで、彼らの残された時間を考えるようになります。

 その結果、実機を復元するのではなく、むしろ見学者が理解しやすいようにする目的で「飛燕」の金属製原寸大模型を作ることに方針を転換。完成後は、新たな施設でその両方を展示することに決めたのです。

 こうした武社長の強い想いが、すでに大戦機の模型製作を手掛けていた日本立体の齊藤社長をも動かしました。こうして、晴れて「飛燕」原寸大模型の完成へと至ったのです。なお、このレプリカを製作する過程で実機は詳しく採寸され、またその出自も調査されました。

 その結果、この機体はニューギニアのウエワク基地に展開した日本陸軍航空隊の第14飛行団第68戦隊所属の「飛燕」だということが判明します。しかも、エンジン補修の状況や当時の記録などから、第2中隊所属の垂井光義中尉(当時)が搭乗した177号機であることも明らかになりました。

実機パイロットはなんと岡山県の出身!

 では、この垂井中尉とはどのような人物だったのか、改めて振り返ってみましょう。

 彼は1915(大正4)年7月生まれで、1934(昭和9)年11月に陸軍飛行学校を卒業した少年飛行兵の第1期生です。実戦参加は1937(昭和12)年7月に始まった日中戦争からで、1939(昭和14)年5月に勃発したノモンハン事件でも戦っています。なお、6月26日の初戦では、ソ連(現ロシア)のI-15戦闘機50機以上を相手に、同僚とともに九七式戦闘機3機で挑んで6機を撃墜、その内の2機は垂井機の戦果でした。

 こうして垂井曹長(当時)は9月停戦までの3か月間に28機を撃墜してエースに名を連ねたほか、ノモンハン戦全体では撃墜数第2位を誇るまでになっています。ちなみに、その間には空中接触されて落下傘降下した中隊長(上司)を、敵地に強行着陸して救出するという活躍まで見せました。

 その後、垂井曹長は陸軍士官学校に進んで1941(昭和16)年7月に少尉へ任官、同年12月に太平洋戦争が勃発すると南方のマレーやジャワ、スマトラを転戦します。帰国後の1943(昭和18)年4月、中尉へ昇任すると彼は第68戦隊に配属となり、再び南方のニューギニアへ派遣されることが決まります。この時に受領したのが三式戦「飛燕」の177号機。この機体で、垂井中尉は故郷である岡山県美咲町の実家上空を3回旋回飛行したと伝えられています。

 そう、つまりこの機体の操縦者は、このたび開館したミュージアムと同じ、岡山県の出身だったのです。

まさに “里帰り” となった奇跡の実機

 こうして、ニューギニアに赴任した垂井中尉は、ここでも撃墜戦果を重ねています。中には強敵であったアメリカ陸軍のP-47「サンダーボルト」戦闘機も含まれています。

 しかし、この三式戦177号機はエンジン故障で湿地帯に不時着したことで、同機の戦争はそこで終わりを告げした。しかも、この不時着から生還した垂井中尉も、1944(昭和19)年8月に受けた機銃掃射で戦死してしまいました(戦死後大尉に昇進、総撃墜数38機)。

 こうした「飛燕」177号機の数奇な運命やその後の日本へ帰還の経緯を知ると、まさに “奇跡の里帰り” だったと言えるのではないでしょうか。

 今回のオープニングには、垂井大尉の岡山県在住のご遺族のほか、第2中隊で整備を担当した山根昌敏大尉のご遺族も東京から参加しており、意義のあるセレモニーになりました。

 同ミュージアムでは、今後こうした歴史的な新旧の機体を間近で見学できるようになります。入館は専用サイトでの事前予約制となりますが、岡山県に行く機会があれば足を運んでみたらいかがでしょうか。

 肉眼で直接その貴重な展示を見ると、当時の歴史や日本の航空技術に対して新たな思いを抱くかもしれません。

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