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【「ミッシング」評論】強固な意思に畏怖の念すら覚える吉田恵輔監督にしかたどり着けない名作

映画.com / 2024年5月19日 8時0分

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「ミッシング」は公開中 (C)︎2024「missing」Film Partners

 映画「ミッシング」には(これまでのあらゆる吉田恵輔作品と同様に)、「この苦しみや悲しみが他人にわかってたまるか!」という叫びと「でも自分にはわかるよ」という共感とが驚くほど自然に同居している。主人公もその他のあらゆる登場人物も同じくらいの勢いで突き放し、それでいて決して手を離さない強靭さがある。

 主人公の沙織里にとっては、行方不明の幼い娘を見つけることがこの世で一番の重大事であり(母親にとって当然のことだが)、手がかりが得られないまま世間が忘れていくことに焦り、また憤る。街頭でビラを配り、テレビの取材を受け、必死に情報提供を呼びかけるのだが、自分と同じテンションで娘を案じてくれない夫に、娘を預けたのに目を離してしまった弟に、移り気なメディアに、無神経で無責任なネット民に、そしてすべての他人に対していとも簡単に牙を剥く。

 「自分以上に娘を思っている人間はいない」という強い思いは、母性のあらわれであって美しいもののはずだが、吉田監督と石原さとみが作り出した沙織里という人物はほとんど手負いの獣と化していて、もはや周囲にとって迷惑寸前の存在になっている。さすが吉田作品、相変わらず手加減がない。

 なにか大きな事件が起きたときに、一介の市民でしかない者にとってどれほどのことができるのか? 多くのフィクションは、決して諦めない母親の決意と努力を美談として描くだろう。しかしこの映画の沙織里は、圧倒的に無力な庶民のひとりでしかない。打つ手のない現実はあまりにもリアルで、「都合のいいウソは一切認めないぞ!」という作り手の強固な意思には畏怖の念すら覚えるほどだ。

 しかし不謹慎を恐れぬユーモアは吉田監督の大きな武器でもある。本作でも思わぬ方向から小ネタ大ネタが飛んできて、緊張と緩和を巧みに操ってみせる。ただし「ミッシング」は、絶妙にギリギリのところで笑えない。いや、笑わせない。おそらく本作の切実さが観ているこちらを笑いの一歩手前で押し止めるのだろう。

 監督が得意としてきたズラしのテクニックが、今回は冗談まじりに混ぜっ返すのではなく、絶望も救いも無造作に放り出されたグレーな世界を描くための絵の具として機能している。吉田監督にしかたどり着けないネクストレベル。人間と、われわれが生きている世界に真摯に向き合った名作だと思う。

(村山章)

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