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写植機誕生物語 〈石井茂吉と森澤信夫〉 第40回 【茂吉と信夫】金策に走る

マイナビニュース / 2024年4月30日 12時0分

画像提供:マイナビニュース

フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)

○発明奨励金の交付

邦文写真植字機の開発に取り組みはじめてからの研究費や材料費、工員の給料などは、すべて石井家のふところでまかなわれていた。いくら茂吉に蓄えがあったといっても、わずかばかりの米屋の商いが唯一の収入源とあっては、資金が枯渇するのもむりはない。

写真植字機研究所が急速に窮乏におちいっていくなか、ひとすじの明るい光が差した。茂吉が1927年度 (昭和2) に申請した発明研究費補助金が認められ、1928年 (昭和3) 春、商工省から3,500円の発明奨励金が交付されたのだ。[注1] 本連載第36回でふれたように、当時、写真植字機研究所の工員の月給が35円、750円で「一戸建ての家が買えるほどの金額」である。3,500円の奨励金はかなりの金額であったことがわかる。

この奨励金は商工省の依頼により、帝国発明協会発明調査委員が調査・選定した推薦にもとづき交付されたもので [注2] 、邦文写真植字機の価値がおおやけに認められたことはうれしい出来事であった。しかし写真植字機研究所の経済状況にとって、もはやこの3,500円も焼け石に水に過ぎなかった。[注3]

○来ない注文

1927年 (昭和2) 春、政治家の失言をきっかけに金融不安が表面化し、日本は昭和金融恐慌におちいっていた。いっぽう出版・印刷界では、1926年末ごろから改造社が1冊1円の『現代日本文学全集』の刊行を始めて「円本ブーム」が起こり、1927年 (昭和2) 7月には岩波文庫が創刊されて、むしろ活況を呈しつつあった。しかしそうしたなかでも、未知なる機械である邦文写真植字機を使ってみようという人はそうは現れず、機械の注文は1台もないままだった。

写真植字機研究所の運営を支えていたのは、茂吉の妻いくだった。神明屋の商売、写真植字機研究所の経理や労務面の管理、ほとんどが住み込みだった研究所員、工員の食事や身のまわりの世話。さらに、工場内の采配や外部との折衝……。ひたすらに研究に打ち込む夫の代わりに、これらすべてをおこなうばかりでなく、高血圧で寝たきりの義母や子どもたちの面倒も見なくてはならなかった。[注4]

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