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社長が銀行に頭を下げて回り…ベンチャー企業だったトヨタが倒産寸前に追い込まれた日

プレジデントオンライン / 2022年1月25日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Light Capturing

戦後、トラック販売が好調だったトヨタ自動車は金融政策「ドッジ・ライン」で原料が急上昇し、一転して倒産危機に陥った。銀行から融資を断られ続けた当時の社長・豊田喜一郎氏がとった行動とは――。

※本稿は、野地秩嘉『トヨタ物語』(新潮文庫)の一部を再編集したものです。

■在庫を抱えないトヨタで在庫がどんどん増え出し…

1949年、ドッジ・ラインが始まった年は自動車産業にとって、まったくの厄年だった。まず、ドッジ不況でトラックが売れなくなった。

地方の役所、運輸業、中小企業といったトラックの顧客層が不況で契約を取り消し、とたんに在庫が増えてしまった。トヨタは7月から8月にかけての在庫が400台を超えた。8月には石炭の配給統制が撤廃、9月には製鉄用の原料炭に支給されていた補助金がドッジ・ラインにより廃止された。そのため石炭と鉄の価格が上がった。ちなみに鉄鋼の統制価格は32~37パーセントも値上げされている。

「原料が上がったのなら自動車も価格を上げればいい」

当たり前の理屈なのだが、自動車だけは翌50年の4月まで従来通りの価格で売らなくてはならなかった。不思議なことに自動車だけは統制価格が温存されたのである。

炭鉱、鉄鋼業という老舗(しにせ)の業界にはGHQや政府を動かす力があった。しかし、その頃の自動車業界はベンチャーである。必死になって政府に働きかけたが、思うような返事は来なかった。もっとも、この時に値上げしたら、車はもっと売れなくなっていたかもしれない。

当時の社長、豊田喜一郎は現場に出るのをやめ、幹部と一緒に販売に精を出し、売掛金の回収に走った。また、資材が上がった分を原価を低減して節約しようと図った。それでも鉄鋼は4割近くも上がっているのだから、いくら節約しても限度がある。毎月2200万円もの赤字が続くことになってしまった。

■日産、いすゞが1000人規模のリストラに踏み切るも…

当時の公務員初任給は4863円(48年)。2200万円の赤字垂れ流しはトヨタの体力を徐々に奪っていく。それでもなんとか続いていたのは本家の豊田自動織機が「糸へん景気」という綿業の好況で大儲(おおもう)けしていたからだった。

だが、戦前、トヨタと並んで自動車御三家と呼ばれた日産、いすゞにはそれほどの体力はない。まず、音を上げたのは、この2社だった。

当時、3社のシェアはトヨタが42.5パーセント、日産38.2パーセント、いすゞが15.4パーセントである。3社がトラック市場を独占していたのだが、どこも内情は苦しいものだった。日産、いすゞはトヨタにおける豊田自動織機のように儲かっている関連会社を持っていたわけではない。赤字構造を断ち切るためには人員を整理してコストカットするしか道はなかった。

そこで、いすゞは10月に1271人の人員整理を発表する。従業員5341人の約24パーセントという規模だ。続いて日産が1826人の人員整理、加えて賃金カットを決めた。これもまた日産の従業員8671人の約21パーセントである。日産はいすゞの会社側提案を参考にしたと思われる。

ただし、どちらの会社も労働組合は「ああそうですか」と人員整理を受け入れたわけではない。なんといっても敗戦から5年間は労働運動が高揚していた時期であり、各地で先鋭化した労働組合が大きな争議を起こしていた。話し合いで解決するよりも、ストライキ、職場放棄、職場のロックアウトという手段に走ったのである。

■アメリカ軍の装甲車、戦車、戦闘機まで出動

いくつかあった大きな労働争議のなかで全国民の注目の的となったのが映画会社東宝砧(きぬた)撮影所のそれだった。

会社側に対抗するため撮影所の組合員は砧撮影所に立てこもり、バリケードを設置し、技術と美術スタッフは協力して電流を流した電線、大型扇風機を持ち出して籠城(ろうじょう)した。砧撮影所は戦国時代の城郭のように武装されたのであった。撮影所のストライキには映画監督、人気俳優、女優といった著名人も参加したこともあって、マスコミ、一般人は事態の推移に目を凝らしたのである。

いよいよ組合員を排除するという日、やってきたのは警察だけではなかった。アメリカ軍までが出動してきたのである。しかも、アメリカ軍は装甲車、戦車、3機の戦闘機まで持ち出した。

「やってこなかったのは軍艦だけ」と言われた大争議だった。

この頃、ストや職場放棄が頻発したのは労働運動に慣れているリーダーたちが全国の大きな争議に指導に出かけ、デモ、闘争のノーハウを伝授したためである。また、中国本土では国共内戦が始まり、共産党優位が伝えられ、日本国内にも影響が及んだ。左翼勢力が力を持っていた時代だったのである。

話は戻る。

いすゞ、日産の労働組合は人員整理に対して抗議のため職場を放棄し、ストライキを打った。2カ月にもなる長いストライキだったが、結局、会社側、組合側ともに倒産を避けるために条件闘争に移り、争議は終わる。この時、2社の経営者は辞任していない。

日産、いすゞが労働争議を起こしていた頃、トヨタでも職場集会が開かれるようになり、挙母(ころも)工場(現豊田市)のなかにも赤旗が立つようになった。トヨタにも争議の余波が及んだのだった。

■銀行で「トヨタは危ない」とうわさが立ち…

日産、いすゞが争議に入った1949年秋のこと、喜一郎は毎日、金策に走っていた。会社に出勤せずに、朝から経理の担当を連れて市中の銀行を回る日々だった。

「うちのトラックは売れています。年末の資金を貸してください」

頼んで歩くのが日課だ。

しかし、銀行を回れば回るほど、「トヨタはよほど危ないのではないか」という風評が立ち、喜一郎が頭を下げても、なかなか「はい」と言ってくれる金融機関は現れなかった。

この時、大阪銀行(のちの住友銀行。現・三井住友銀行)の支店長が「機屋(はたや)に貸す金はあっても鍛冶屋(かじや)に貸す金はない」と放言したという説がある。豊田自動織機に貸す金はあるけれど、トヨタ自動車工業には貸せないという意味だ。

しかし、この言葉は信頼のできる資料に載っているものではない。果たして、一銀行マンがそれほど尊大な言葉を他人に言い放つことができるのか。ただ、この通りの言葉ではないにせよ、大阪銀行はトヨタとの取引を打ち切ってはいる。

いよいよ貸してくれるところがなくなり、2億円の年末資金がなければ、会社はつぶれてしまうという瀬戸際(せとぎわ)に追い込まれた。喜一郎が懸命に「親会社は儲かっている」と言っても、銀行は耳を貸してはくれない。

ミーティングルーム
写真=iStock.com/BobYue
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/BobYue

■日銀名古屋支店に駆け込む

その時、動いたのは販売担当常務の神谷正太郎だった。神谷は旧知の日本銀行名古屋支店の支店長、高梨壮夫の部屋に駆け込む。そして、トヨタの背後には無数の中小企業が存在していると訴えた。

「トヨタがつぶれると中京地区の部品会社など300社以上が連鎖倒産します。中京地区の経済を助けるために日銀が協調融資の融資団を作ってください」

だが、高梨は一度は断った。

「日銀は民間企業に金を貸すことはできませんし、民間企業に金を貸せと命令することもできません」
「金は貸さなくていいんです。命令しなくともいい。集めて声をかけてくれればそれでいいんです」

神谷は詭弁(きべん)ともとれる言葉で何度も日銀を訪ねては、高梨に頼み込んだ。神谷に動かされた高梨は自分自身で調べてみると、トヨタのトラックが売れていること、もし、トヨタがつぶれたら、神谷が言うように中京地区の経済がガタガタになることがわかった。

「見過ごしてはおけないな」

高梨は日銀本店に相談してみた。しかし、総裁、一万田尚登は自動車の国際分業論を唱える人間である。

「乗用車はアメリカにまかせればいい」と事態に乗り出そうとしなかった。

普通の金融マンならそこであきらめてしまうところだけれど、高梨は中京地区の経済が破たんするのを手をこまねいていることはできなかった。

■「お願いをした以上、責任は私が持ちます」

彼は自分でリスクを取って名古屋に支店を持つ金融機関を集めた。そこに喜一郎も呼んでおいた。

「みなさん、日銀は民間の金融機関に命令することはできません。今日は集まってもらって、話を聞いていただくだけです」

前置きをして、「名古屋の経済のために、いま、みなさんができることをやってほしい」と話した。

それにとどまらず高梨は喜一郎や出席者の前で「お願いをします。そして、お願いをした以上、責任は私が持ちます」と言い、頭を下げた。横では喜一郎も一緒に頭を下げる。

大阪銀行の担当者が手を上げて質問をした。

「高梨さん、責任を持つとはトヨタが返せなかったら、日銀が保証してくれるという意味なのか?」

高梨は応じた。

「大阪銀行さん、私は融資のお願いはしていません。みなさんができることをやってくださいとお願いしただけです」

言外の意味を察しろというわけだ。だが、大阪銀行の担当者は返事をせず、その場から引き揚げていった。

残った銀行団は高梨の意を体して、トヨタへの融資を話し合った。結局、帝国銀行(のちの三井銀行。現・三井住友銀行)と東海銀行(現・三菱UFJ銀行)を幹事とした24の銀行が協調融資を決めた。

■“ベンチャー“のトヨタを信用していなかった

この時、喜一郎は融資団にトヨタ労働組合と交わした覚書を示している。

「原価低減を目的とする合理化を推進する。人員整理は行わない。賃金の1割は引き下げる」

野地秩嘉『トヨタ物語』(新潮文庫)
野地秩嘉『トヨタ物語』(新潮文庫)

喜一郎はあくまでこの約束を守り通せると考えたのだろうが、融資団は日産、いすゞが人員整理で危機を乗り切ったことを知っている。その場では何も言わなかったが、トヨタの状況を眺めて、経営状況が好転しなかったら、次は人員整理をするしかないと判断していた。

ともあれ、喜一郎は最悪の事態を脱することができた。

この時、席を立った大阪銀行と日本興業銀行は融資団に入らなかった。そのため、大阪銀行すなわち住友銀行は長いあいだ、トヨタと取引することができなかった。

日銀支店長から示唆(しさ)され、しかも、他行が揃(そろ)って融資しているのに、融資団に入らなかった大阪銀行の幹部はベンチャーである自動車会社の価値を認めていなかったのだろう。

住友は三井三菱と並ぶ歴史のある財閥だ。確固たる企業文化が確立されており、住友の審査基準ではトヨタというベンチャーを信用しなかった。だから他行が融資しても「うちも参加します」とは言わなかった。トヨタが大きな会社になったから悪役にはなったけれど、住友銀行はそれなりに、はっきりとしたポリシーを持っていたわけだ。

こうして1949年の倒産危機は乗り切ることができた。だが、本当の危機は翌年、1950年だったのである。(『トヨタ物語』につづく)

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』『京味物語』『ビートルズを呼んだ男』など多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。近著に『トヨタ物語』(千住博解説、新潮文庫)がある。

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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

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