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北海道と東北は共産国家になるはずだった…ロシアの「日本占領作戦」が実行されなかった間一髪の偶然

プレジデントオンライン / 2022年8月15日 8時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/zhu yuanbo

1945年に敗戦した日本の処遇をめぐっては、米国、英国、中国、ロシア(旧ソ連)で分割統治する案があった。中でもロシアには、日本が降伏するタイミングで北海道に攻め入る計画があったという。なぜ実行されなかったのか。2021年に亡くなった作家・半藤一利さんの著作『昭和と日本人 失敗の本質』(角川新書)から、一部を紹介する――。

※本稿は、半藤一利『昭和と日本人 失敗の本質』(角川新書)の一部を再編集したものです。

■開戦直後に「戦争終結」を構想していたアメリカ

日本が太平洋戦争を決議したとき、当時の政府および軍部は、戦争終結をどのような形で行うかについてほとんど研究しないで、というよりも、万事あなたまかせで突入した。一言でいえば、ナチス・ドイツのヨーロッパでの勝利をあてにして、そのときには、孤立して戦うアメリカは戦意を失うであろうから、有利な条件で講和にもちこめばいい、という非常に手前勝手な政策しかもち合わせていなかった。

いっぽうアメリカは、もちろん、日本が開戦した当初には、さすがに戦争計画を持っていなかったが、真珠湾攻撃によって戦争が始まった直後に、すでに戦争終結までの計画を構想しはじめている。

具体的にいうと、昭和十七(一九四二)年八月、開戦の翌年に、まず東アジア政策研究委員会を作った。もちろん、ヨーロッパにおける対ドイツ戦争の終結方策も同時に別なところで考えている。こうして昭和十七年八月から、この戦争にどのようにして結末を付け、どういう形で日本を処理するかという問題を考え出し、十八年十月には極東地域委員会ができ、現実の政策文書を作成するまでになった。十九年一月には、これが戦後政策委員会に発展する。

この頃には、日本が敗北することはアメリカにとって自明の理となっていたから、占領政策をどうすべきかについて頻りに考えるようになっている。そして、十九年十二月、国務省、陸軍省、海軍省の三省が集まった調整委員会ができる。つまり、この三省調整委員会が主体となって、日本に対する戦後経営策を考え出していくのである。

■ソビエトと共同で「日本占領分割案」が浮上

その裏側でもう一つの考えが先行していた。ソビエトが戦後の世界経営に乗り出してきていて、ソビエトとアメリカとの大交渉が始まっていたのである。十八年十一月のテヘラン会談で、ルーズベルトとスターリンとが会って、ソビエトとアメリカとが仲良く手をつなぎ、肩を組み合って戦後の世界政策をリードしていこうじゃないかということを決める。

もう勝利は目前である。我々は戦後の設計に掛かろうじゃないかということで、二人はご機嫌な形でテヘラン会談を終えた。このルーズベルトのご機嫌な意向が三省調整委員会に持ち込まれた。そして、日本の戦後をどうするかはソビエトも仲間として考えていこうではないかということから、三省調整委員会は、日本占領分割案というものを考え出してくるのである。

日本が降伏した後は、そのままでおさまらず、当分の間ゲリラ活動が起きるであろう、あるいは、徹底抗戦分子が至る所で反乱を起こすであろう。日本の占領はそれほど容易ではない。膨大な兵力を日本本土に送り込まなければ、日本の占領はうまくいかないのではないかと彼らは計算した。

■問題はいつソビエトが対日参戦してくるか

というのも、日本軍は、敗北を承知しながら、陸地でも海上でもものすごい抵抗をして、ついには“神風特別攻撃隊”という世界の戦史にないような戦法をとって徹底抗戦をする。そういう強さに驚いて、約八十万の軍隊を日本本土に送り込まないことには、日本占領はうまくいかないだろうと予測したのである。

そのような背景から、日本分割案が出てきた。そして、話がどんどん詰められていって、日本分割案が決定するのが昭和二十年三月、まだルーズベルトは生きていた。そしてこの結論に大統領はすこぶる満悦した。

ところがそのときに、実は、その背後においていろいろな議論があったのである。ソビエトがいつ対日参戦してくるか。また、参戦してこない場合でもソビエトを交ぜるかどうか、といったような議論が沸騰して、なお委員会は揉めに揉めていたのである。

しかし、ソビエトは、一カ月前の昭和二十年二月のヤルタ会談において、ドイツの降伏後三カ月たったら対日参戦して、一気に満洲に攻め入るということを、ルーズベルト、チャーチルと諮って態度を明確にしている。そうなればまことに都合がいい。とにかく日本はそれまで頑張るだろうから、スターリンを信用し、ソビエトは参戦するという大前提の下で結果的には日本分割案が練り上げられていったのである。

■樺太、千島だけでなく日本本土も奪いたい

現実に、ドイツは五月七日、降伏文書に調印した。それから三カ月後となれば、八月七日以後には、必然的にソビエトが日本に参戦してくることになる。アメリカも急ぎださざるを得ない。

そのうちにルーズベルトが亡くなった。日本を降伏させるために、無条件降伏政策の見直しの声もではじめる。そのため、ソビエトの動向をにらみながら、アメリカの政策も次第に変化してくる。

しかも、戦後の世界はソビエトとアメリカが手を組んでリードしていくのだという約束を、スターリンは常にちらつかせる。ソビエト参戦の暁には、樺太はもちろん返してもらう、それから千島も自分のものにする。この千島の条項は、千島は必ずしもソビエト領ではないから、日本から勝手にもぎ取るというような表現で、アメリカも承諾している。

つまり、ソビエトは、樺太、千島という分け前をすでにもらっていながら、さらにそのうえどうしても日本本土にソビエト軍を送り込みたいという意図を非常に強く出しはじめた。ソビエトはヨーロッパで、ドイツ降伏後、ドイツの半分、ベルリンの半分を取ったりしているが、その方式をそのまま日本に持ち込みたいと、不相応に大きな野望を抱きはじめたのである。

■アメリカが作り上げた「日本分割案」の中身は…

ところが、「最後の一兵まで」を呼号する日本の情勢がどんどん悪くなって、降伏が早まりそうな形勢になってきた。そこで、ソビエトに焦りが出てきて、頻りにアメリカ政府をつつく。スターリンはトルーマン大統領に、ルーズベルトの無条件降伏政策をしっかりと守ってもらいたいということを、事あるごとに強調する。

それをアメリカが強硬な政策として掲げている間は、日本は容易に降伏できないから、戦争がどんどん延びるであろう、そうすれば、自分たちが十分な準備をととのえて対日参戦をして日本軍と戦う、それによって日本本土への進駐が容易になってくるであろうというもくろみがあったのである。

もちろん、アメリカも、頑強な日本陸海軍がそれほど早く手を上げるとは思ってはいないし、アメリカ軍の損傷をできるだけ減らしたいということで、はじめはソビエトの参戦を猛烈な勢いで督促していた。

そういう状況下で三省調整委員会が作り上げたのが、いわゆる日本分割案であった。日本を占領した後も、日本軍の抵抗およびゲリラはかなり活発に行われるであろうということで、第一局面として、日本降伏後三カ月間は、アメリカの軍隊八十五万が軍政を敷いて、日本軍の降伏が完全になるまで、日本本土をぴしっと押さえる。

日本の古い地図
写真=iStock.com/cmcderm1
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/cmcderm1

■アメリカ、イギリス、中国、ソビエトが各ブロックを4分割

しかしながら、アメリカはもうすでに四年も戦っているから、八十五万の兵隊をいつまでも日本に置いておくわけにはいかない。第二局面、つまり三カ月が終わった以後の九カ月間は、アメリカ、イギリス、中国、ソビエトの四カ国が日本本土に進駐し、これを統治する。

兵力数は、アメリカ軍が三十一万五千、イギリス軍が十六万五千、中国軍が十三万、ソビエト軍が二十一万、合計八十二万の軍隊が、第二局面の九カ月間、日本本土を占領する。

第二局面で日本のなおつづくかもしれないゲリラその他の反抗分子は大体治まるであろうから、その後の第三局面、占領が終了して日本が平和条約を結んで国交を回復するまでの間は、アメリカが十三万五千、イギリスが六万五千、中国が六万、ソビエトが十万、合計三十六万の軍隊を日本本土に置いておく、このように軍隊の区分を決めたのである。

その場合に、日本本土を四つに分けて、関東地方と中部地方および近畿地方をアメリカ軍、中国地方と九州地方をイギリス軍、四国地方と近畿地方を中国軍──近畿地方は、アメリカ軍と中国軍が共同して押さえることになる──そして、北海道と東北地方はソビエト軍が統治する。さらに、東京は四カ国が四分割して統治するという。

こういう分割案が完成して、日本が最後まで頑張るならばこれを実施しようと正式に決めたのが、昭和二十年八月十六日。ご承知のように、日本は八月十四日にポツダム宣言の受諾を決定し、十五日に天皇陛下の放送をもって完全に戦争を終結しているから、なんと、終結の一日後にこの大分割案が完成したことになる。

■ルーズベルトが長生きしたら実行されていた?

ところが、ルーズベルトの無条件降伏政策を、トルーマンは必ずしも継承しようとはしなかった。それに、天皇制の問題まで連合軍が勝手にするような強硬政策では、日本人は講和など結ばない、結べない、できるだけ緩和した条件で日本の降伏を誘うべきであると、グルー元駐日大使をはじめとする知日派の人びとがしきりにアメリカ政府に働きかけていた。

幸いなことにグルー元大使が昭和十九年末に国務次官になって、国務長官に働きかけるというようなことで、アメリカの政策が緩和の方向に向かっていく、と同時に、ヨーロッパでの東西の対立も顕著になり、米英はソビエトに対して猛烈な警戒心を抱きはじめていく。

歴史に「IF」はないが、もしルーズベルトがそのまま生きていたら、この日本分割政策が日本占領の基本政策として施行された可能性もなきにしもあらずであった。幸い、ルーズベルトの後を襲ったのが、ミズーリ州の田舎の政治家で国際情勢に疎いところのあるトルーマンであったために、側近の知恵者たちの意見をよく聞いて、無条件降伏政策の危険性を考えるようになってきたし、分割案の危険性にも思いを至すようになった。

それに、日本の占領政策としては、天皇陛下および日本の政府の機構をそのまま使ったほうがうまくいくのではないかという考え方が、アメリカ政府のなかに芽生えてきていた。それが、日本降伏後のアメリカ政府の政策決定に大きな影響を与えたのである。

■大議論が交わされる中、日本側は終戦を決意

しかしながら、一方には、戦後の経営は米ソが手を組んでやる、そして、日本には最後まで無条件降伏政策を押しつけるべきである、という強硬な意見がまだ多くの米政府要人の頭を占めていたことも事実である。

ワシントンでの状況をよく調べていくと、この両方の意見がやたらにぶつかり合って、大議論が展開されている。三省調整委員会の下に極東小委員会というのがあって、ここでも大議論をしている。その結果、日本をどうすべきかについての最終決定がなされないままで、戦争の最終局面を迎えていたのであった。

ところが、当然まだまだ戦うであろうと思っていた日本が戦争終結に向かいはじめた。当時七十七歳の鈴木貫太郎首相の下、米内光政海軍大臣、東郷茂徳外務大臣といった人たちを中心とする、天皇陛下の信任の厚い内閣ができていた。

さらに言えば、陸軍大臣の阿南惟幾大将も、口では徹底抗戦を言うが、実は、最後まで鈴木首相を補佐するという信念を持ってこれに協力していた。それで、反対する軍部を抑え、どうにか終戦に持ち込むことができた。八月九日に天皇陛下の第一回ご聖断による、という意想外の方法で、戦争終結という大方策が決まって、日本の降伏がこの時点でほぼ決定する。

■「北海道占領に間に合わない」と焦るロシアは…

あわてたのはソビエトである。ソビエトは、八月九日、約束どおり満洲に侵入して対日参戦をしてきた。これに対して、日本政府はソビエトに宣戦布告をしようとはしなかった。日ソ中立条約が依然として有効であるからである。

こうして日本は宣戦布告せずということを決めて、一方的なソ連軍の蹂躙に任せた。つまり満洲での戦いを国際法の審判にゆだねた。これは戦争にあらず、従ってやむを得ない自衛戦であるという建前をとって、満洲の曠野で敗走がつづいたのである。

参戦したソビエトは、日本の降伏が近いということで、政治的な猛烈な働きかけに転じないわけにはいかなくなる。どう考えても、ソビエト軍は満洲を占領するのがやっとであり、いわんや北海道まで軍隊を持ってくることは時間的に不可能であるということから、アメリカとの外交折衝によって何とか日本本土に軍隊を送り込もうと、さまざまな手を使ったのである。

その具体的な例のひとつに、八月十日、日本時間の八月十一日の午前二時、モスクワで、ハリマンという当時のアメリカ駐ソ大使と、ソビエトのモロトフ外務大臣とが猛烈な激論をした事実がある。

モスクワの聖バジル大聖堂
写真=iStock.com/Andrey Danilovich
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Andrey Danilovich

■二日しか戦っていないのに統治権は渡せない

モロトフは、「日本占領にアメリカの軍司令官とソビエトの軍司令官の二人を置こう。アメリカ軍の軍司令官にマッカーサーを選ぶならば、わが軍は極東軍最高司令官ワシレフスキー元帥を選ぶ。マッカーサーとワシレフスキーの二人で、日本を二つに分割して統治しようではないか」と、強硬にハリマン大使に言う。

ハリマン大使は、満洲鉄道の計画にもかかわったアメリカの鉄道王エドワード・ハリマンの息子であるから、アジアのことをよく知っていたし、非常に度胸の据わった人でもあった。それに満洲でのソ連軍の国際法無視の理不尽な攻撃に不信感を抱いていた。

「とんでもない話である。わがアメリカ軍は日本を相手に四年間も戦っている。しかるに貴国はわずか二日ではないか。二日しか戦っていないソビエト軍になぜ日本の統治権の半分を渡さなければいけないのか。全く理屈に合わぬ」

と言って、これを断固としてはねつける。これに対しモロトフは、

「それはお前の勝手な意見ではないか。ワシントンに問い合わせて聞け。トルーマンはそのように言わないはずである」と言うが、ハリマンは、「トルーマン大統領に聞かなくてもわかっている。私はトルーマン大統領からすべてのことを聞いてきている。全権は私にある」

と言って突っぱねて、モロトフの攻勢を抑えた。

■なおも諦めないスターリンは「北海道の分割」を提案

このとき、もしハリマンが下手にでてイエスと言ったり、あるいは、ワシントンに問い合わせたりしてもたもたしているうちにトルーマンが対日強硬派に動かされでもしていたら、どうなっていたかわからない。しかし、ハリマンは、トルーマンに知らせることもなく、自分ひとりの判断でソビエトの要求を退けた。

後に、トルーマンはそのことを聞いて、まさにハリマンは自分の思ったとおりのことをやってくれたと激賞するが、とにかくハリマンの頑張りによって、ソビエトは一旦は鉾を収めざるをえなかった。

ところが、ソビエトはなお諦めてはいなかった。日本が降伏した翌日の八月十六日、スターリンはトルーマンに対して、

「日本本土を半分にわけて軍司令官二人による統治はソビエトとしてもあまりにも過大の希望であると思うので、これは引っ込めるが、北海道を留萌と釧路を結ぶ線で二つに分けて、その北半分をソビエト軍が統治したい。

留萌と釧路の町は当然ソビエト軍のなかに入るものとする。もしこの希望が叶えられないならば、ソビエト国民の世論が承知しないだろう。テヘラン会談以来の米ソ関係がこれによって悪化することもあり得るかもしれない。それはアメリカ政府としては十分に考えていただきたい」

という強硬な書簡を寄越して、北海道の北半分の領有を求めてくる。

■「崖っぷちの降伏」が図らずも日本を救った

それに対して、トルーマンは、

「もはや日本占領軍最高司令官はマッカーサーただ一人に決めてある。北海道も日本本土のうちであるから、マッカーサーの統治下にある。ソビエト軍は一人たりともその統治に加わることを得ず」という強い返事を送る。

半藤一利『昭和と日本人 失敗の本質』(角川新書)
半藤一利『昭和と日本人 失敗の本質』(角川新書)

スターリンはかんかんに怒って、

「私と私の同志は、かかる返事を受けようとは予期しなかった、これが戦後肩を組んで世界政策を推進していこうという友邦のやることであるか」

と、恨み骨髄のようなことを言うという一幕があった。日本分割のソビエトの夢はこうして潰えたのである。その代りに満洲にある日本軍兵士たちをシベリアに送るという悪魔的な政策をとることになる。

思えばまことに間一髪、日本の降伏はまさしくギリギリの崖っぷちで決せられたのであるが、それが絶好のときであったことがわかる。日本国民はだれひとり国家分割の危機など知らなかった、という事実を考えると、歴史というものが裏側にどんな秘密を隠して流れていくことか、そぞろ恐ろしくなってくる。

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半藤 一利(はんどう・かずとし)
作家
1930年、東京生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋新社(現・文藝春秋)へ入社。『週刊文春』『文藝春秋』編集長、専務取締役を歴任。著書に『日本のいちばん長い日』、『漱石先生ぞな、もし』(新田次郎文学賞)、『ノモンハンの夏』(山本七平賞、以上文藝春秋)、『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』(毎日出版文化賞特別賞)、『墨子よみがえる』(以上平凡社)など多数。2015年菊池寛賞受賞。2021年1月逝去。

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(作家 半藤 一利)

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