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漫才と演劇に夢中、成績は降下 高校で生涯の友と先輩との運命的な出会い 話の肖像画 落語家・桂文枝<7>

産経ニュース / 2024年5月7日 10時0分

高校は演劇部

《母子が離れ離れに暮らしていたころ、母が病気で入院。病室で聴いた西条凡児(さいじょうぼんじ)(※タレント、漫才師、1914~93年、『素人(しろうと)名人会』の司会などを担当、辛口トークで人気を呼ぶ)のラジオ番組に魅了される》

病気にはなったけれど、僕は母とずっと一緒にいられることがうれしかった。病室でよく聴いていたのは、ラジオの『凡児のお脈拝見』という番組。めちゃくちゃ面白かったなぁ。

(花菱(はなびし))アチャコさんが「雰囲気」、(藤山(ふじやま))寛美(かんび)さんが「間」やったら、凡児さんは「センス」ですか。(芸人になった)僕が「笑い」の参考にさせてもらったのがこのお三方でした。後の話になりますけど、司会をされていた『素人名人会』には僕も(アマチュア時代に)出演して、よく漫談をやらせてもらいました。

《やがて母に再婚話が持ち上がり、母子は再婚相手が所有していた大阪・弁天町のアパートに転居する》

(母の再婚に)僕は納得がいかなかったですねぇ。「河村」の姓は父親の姓だから変えたくない。小学生の僕からみたら再婚相手の男は頭が薄くなっていて、(母よりも)随分、年上に見えました(※実際はそれほど年の差はなかった)。

まぁ、僕を預かってくれている親類に、いつまでも面倒をかけられない、ということだったのでしょう。何度か親類の会議が開かれたようです。結局、「河村」の姓は変えないという条件で母の再婚が決まり、僕と母は、再婚相手が持っていた弁天町のアパートに移ります。

ただし、その再婚相手は3年くらい(※文枝さんが中学3年生のとき)で病気で亡くなってしまう。ごく最近になって、そっちの遠縁の方が訪ねてきて、初めてお墓にも行きましたが、おカネ持ちだったのでしょう。立派なお墓でしたなぁ。

《大阪市立市岡(いちおか)商業高校に入学したのは昭和34年4月。再び働き出し、1人で家計を支える母を「少しでもラクにさせたい」と就職に有利な商業高校を選んだのだったが…》

やったことがないソロバンや簿記がイヤというか、授業についていけません。中学までは国語や英語が得意で成績も上の方だったのですけど、高校に入ってから成績も急降下…。

《楽しくなったのは演劇部に入ってから。生涯の友となる「岩佐くん」と出会う》

彼はすごいイケメンで、むちゃくちゃ面白い人でした。お父さんは中央市場で魚の仲買をしてて、よく家にも遊びに行きました。その岩佐くんが「漫才やらへんか? 番組、出たら、カネもうけもできるでぇ」と誘ってくれたのです。

演劇部ではもう一人、運命的な出会いがありました。1年先輩の「直井(なおい)さん」。ルーキー新一さん(※コメディアン、昭和10年生まれ)の弟で、別の先輩と組んで当時のラジオ『漫才教室』(※大阪・朝日放送ラジオで32~36年放送)など素人出演番組に出ていたのです。直井さんは高校を卒業後、一般企業に就職しましたが、プロの漫才師となって、横山やすしさん(※コンビ名はやすし・たかし)と組み、さらに「レツゴー三匹」の正児(しょうじ)さんとして人気を得ることになります。

岩佐くんに誘われた僕は、授業をネタにした漫才を書いてみた。当時、大人気やった「ダイラケ」(※中田ダイマル、ラケットの兄弟コンビ)の漫才などをラジオでよく聴いていたし、子供のころ芝居小屋で見た演劇も参考になりましたねぇ。

僕は、漫才と演劇に夢中になり、高校生活もたちまち楽しくなります。(聞き手 喜多由浩)

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