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孤高の天才棋士「豊島九段」を育てた"2人の師匠" 幼き頃の知られざる師匠とのエピソードを公開

東洋経済オンライン / 2024年5月9日 9時30分

バス停を降りると、長い上り坂が続いていた。道沿いの公園には桜があり、五分咲きを迎えていた。1999年4月4日、8歳の豊島将之は、両親と指導棋士の土井春左右に連れられて、初めて大阪・高槻市にある桐山清澄九段宅を訪れた。プロを目指すための入門試験である。

桐山は普段から研究を行っている奥の仏間に盤を用意して、豊島と向き合った。母親と土井は別室で待機することになり、父親だけが息子を見守るために盤の側に座った。桐山が駒袋を開けると、盤上に飴色の駒がこぼれた。静かな深い光沢。少年はそれを「美しい」と感じた。「こんな色になるまで指さないと、プロ棋士になれないんだ」。

互いに駒を並べ終わると、桐山は自分の角行を、駒箱に納めた。「角落ち」。通常、プロ棋士が8歳の子を相手に指す手合ではない。だが桐山は、豊島が土井に平手で勝つことを聞いていた。

桐山は当時50歳を超えていたが、B級1組に在籍していた。タイトル獲得4期、A級通算14期。中原誠十六世名人や米長邦雄永世棋聖らと何度もタイトル戦の舞台で対局してきた。同世代のスター棋士のような派手さはなかったが、長きにわたってトップクラスに在籍した実力は「いぶし銀」と称された。

豊島の母は、息子に奨励会を受験させることに躊躇いがあった。道場での昇段の早さを注目され、周囲からは「すごいですね」と言われる。でもそれは息子が熱心に棋書を読んで勉強しているからで、才能とは違うのではないか。

また豊島が将棋を覚えた頃、父親は弁護士になるための司法試験浪人をしていた。現在のようなロースクールがない時代、裁判官・検事・弁護士の資格を得るための司法試験は、国家試験の中でも最難関であった。合格までに10年以上かかることも珍しくなく、その厳しさは将棋の奨励会と通じるものがある。

父親は無事に合格して弁護士になり、母親はホッとしたばかりだった。しかし、息子が奨励会に入れば、また祈るような日々が始まる。プロ棋士への道が狭き門であり、指導してくれた土井が三段で退会したことも聞いていた。

始まって間もなく、豊島の目の端にうつらうつらと揺れる父の姿が映る。「ここで寝ちゃうんだ」。仕事の疲れが出てしまったのだろうが、いまは思いやる余裕はない。この将棋で弟子になれるかどうか決まるのだから。「先生が気づかなければいいなぁ」とヒヤヒヤしていた。

一方、桐山は盤上しか見ていなかった。目の前にいる小さな子が指す将棋は、弾けるような元気さにあふれていた。互いの指が、呼応するように盤上に伸びる。

師弟の物語はすでに始まっていた。

野澤 亘伸:カメラマン/『師弟~棋士たち魂の伝承』著者

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