1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 経済
  4. ビジネス

32歳で介護離職した彼女がむしろ幸福そうな理由 フランスで働いていた彼女が親の介護の日々に

東洋経済オンライン / 2024年4月11日 12時40分

その後13年ほど、演奏の仕事や、単発の講師などの仕事を続けてきた宮本さんに、ふたたび転機が訪れる。父親のがんが再発したのだ。

それまで実家では、父親が「多系統萎縮症」を発症した母親の介護をしていた。「多系統萎縮症」は、筋肉のふるえやこわばり、運動障害などの機能不全が起こる進行性の病気で、母親は日常生活のなかでケアが必要になっていた。

しかし、ちょうどコロナ禍で、もし施設に入れてしまうと感染リスクの懸念から家族でも会うことが難しくなってしまう。それに、両親ともに人生の最期までなるべく家で過ごしたいという希望があった。そこで、基本的には自宅で父親が介護し、週末には宮本さんが訪れてサポートする、という生活が続いていた。

「いずれ、母の看取りをすることになりそうだな」。そう思っていた矢先、父親のがんが再発。母親の介護をどうするか、という問題が持ち上がった。

兄と姉は実家から離れて暮らし、仕事や家庭がある。宮本さんは独身で、きょうだいのなかでも一番実家の近くに住んでいることから、宮本さんが実家に引っ越して母親の介護や父親のケアを引き受けようと考えた。

しかし、16年間続けてきた仕事も手放したくない。「演奏の仕事のときは、実家から通うよ」と父親に伝えた。すんなり受け入れてもらえると期待していたが、返ってきたのは「仕事と介護との両立は、できないと思う」という言葉だった。

「『突然、明日は仕事でいないから、ということがあっては困る』と。父も、母の介護でかなり身を削ったからこそ、その大変さがわかっていたんだと思うんです」

だが、仕事を手放すのは不安だった。宮本さんは、「この仕事は一生続けたい」と反論。母親も、「私のために仕事を辞めてほしくない」と援護する。

しかし父親は、受け入れられない様子だった。そうするうちにも、父親の症状は進行し、自らの死に向けた準備を進めていた。「自分はそんなに長くないと思う。最後は家で逝きたいから、よろしく頼む」。そう伝えられた宮本さんに、選択の余地はなかった。

「父が家で逝けるように、看取りの要員として抜擢された感じですね。でも、いやだったわけではなく、私も『家での看取りっていいな』と感じたので、在宅での介護をやらせてほしい、と思いました」

介護離職が、呪縛から解放されるきっかけになった

結果的に宮本さんは仕事を辞め、離れて暮らす兄や姉とも協力しあいながら、実家で母親の介護と父親のケアをすることに。収入がなくなったため、一家の生活費は両親の貯蓄や年金を、母親の介護費用は母親自身の貯蓄をあてながら暮らすことになった。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください